2012/10/07


YAMATO587−2012SUWA


 神長官守矢史料館の敷地片隅に「神長官裏古墳」と呼ばれる塚がある。早苗さんのお屋敷の裏、ミシャグジ祠の更に奥なので油断すると見逃しがちだが、小高い丘の上に立派な円墳の石室があり、中に入ることも出来る。市の指定史跡にもなっていて、築造年代は7世紀頃だそうだ。ちなみに指定年月日が私の誕生日と一緒だった。

 
敷地の周辺には代々の神長官、大祝の墓が点在している。埋葬方法は土葬で、先代七十七代真幸氏まで続いていたらしい。御柱の年に亡くなった神長官は「夏直路廟(なすぐじびょう)」と呼ばれる別廟に葬られた。その廟は神長官屋敷から離れた山奥にあり、夏にしか辿り着けないことから付けられたのだろうか。やはり御柱の年の葬祭はタブーとされていたらしい。

 神長官裏古墳の話に戻る。それにしてもわざわざ古墳を造ってもらえるとは、此処には余程位の高い神長官が葬られたのであろう。市の教育委員会が建てた案内板には埋葬者の名は記されていなかったが、史料館で頒布している「神長官守矢史料館のしおり」に現当主、守矢早苗さんの書いたエピソードが載っていた。早苗さんが幼い頃、祖父の真幸氏がこの古墳について問われた際、「千二百年以上前の遺物で、用明天皇の御世の祖先武麿君の墳墓です」と応えたことを記憶されているという。その後早苗さんは塚に行くたび祖先の墓という石室に入り、古代に思いを馳せていたという。なんかいいなあ・・・(以下妄想タイム)。

さて、この古代神長官の武麿について調べるうち、彼があの物部守屋の次男で、蘇我氏と物部氏が争った丁未(ていび)の乱の後に諏訪に落ち延び、守矢家の婿養子になって神長官を継いだことが判明した。そして孫の守彦の代になって、夢に曾祖父の守屋が出てきたため、守屋山の頂上に祠を建てたという。この件は拙著『MORIYA587』に書いたが(ステマ)、この武麿、婿養子の割には特別扱いも甚だしく、しかも神体山の頂上に守矢家では無く物部氏の祠を建ててしまって良かったのだろうか。守屋山から裏手の高遠側に下った麓には物部守屋神社を名乗る社があり、そこにも怪しい石室があった。神長官と古代豪族、そして諏訪と大和を結ぶ点と線が、繋がった。
ここまでは諏訪信仰の領域で、そこから先は大和の古代豪族の話になる。『MORIYA587』を発表した際も「我々各自の歴史知識に応じて之を判断するより他はない」という一文で締めくくったが、本著では諏訪信仰の域を一気に飛び越え、舞台を大和に移してみる。もちろん中心に取り扱うのは古代豪族の物部氏である。

 
神話では「国譲り」の後、アマテラスの孫であるニニギが高天原より九州の高千穂に降り(天孫降臨)、そこに拠点を築いたとある。後に子孫のイワレビコがヤマトに入り(神武東征)初代神武天皇として即位したとあるが、イワレビコがヤマトに入った際、そこはニギハヤヒという別の神が統治していた。このニギハヤヒこそ前述のニニギの兄で、高千穂に降った弟とは別に天の磐船に乗って河内の哮ヶ峯に降り、現地の豪族の娘を娶りウマシマジという息子を産んだ。ニギハヤヒとウマシマジの父子はイワレビコを助け、後に天皇(大王)家に仕え五代目のイカシオノミコト(伊香色雄命)の代、姉のイカシメノミコト(伊香色謎命)が九代開化天皇の皇后となった際に、一族に「物部(もののべ)」の姓が賜まれたという。

 
そこで本著では特に物部氏に縁の深い史跡として、ニギハヤヒが降り立ったという河内の磐船神社、物部氏の総氏神であり我が国最古の神社である石上神宮、そして物部氏終焉の地となった渋川を取材した。そしてこの取材の真の目的は、あの銀髪ポニーテールのアホの子、物部布都のルーツを辿ることにもある。後に物部氏は同じく有力豪族の蘇我氏と仏教を巡って対立を深めるが、それを陰で操っていた少女が居たのではないか、というのが本著の主題である。「なら大和路」に位置するこの3カ所の史跡を今から巡礼し、その謎を読者と共に紐解いていきたい。

 
では今回はいつもの「スーパーあずさ1号」ではなく、東京発の「のぞみ1号」で、いざ「なら大和路」へと、行って来ます。


ケロちゃんプロジェクト東方Project聖地巡礼集第6弾

『あなたとなら大和路』

オールカラー32P 500円 

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